14世紀末、おそらく1390年頃、スマトラのパレンバン出身のパラメシュヴァラがマレー人を随え、マラッカに定住したといわれている。まず、マラッカ川上流のブレタンに定住し、ここを開墾し、河口に王宮を建て、マラッカ王国が成立した。タイのアユタヤ王朝に従属し、貢物を納めていた。スズの交易と海賊活動を収入源とした。
15世紀には入り、明の使節が訪れるようになり、1405年から1433年にかけては鄭和の艦隊が寄港するようになり、補給基地となり、港が整備され、倉庫や荷役労働者がふえると国際交易都市としてインドやアラブ、明や琉球などから商船や商人があつまるようになった。鄭和の艦隊を受け入れ、明の朝貢国となり“満刺加国王”任ぜられ、マラッカ王国はタイから独立した。
鄭和の艦隊がとだえると、タイはマラッカ王国を攻撃しはじめたが、パラメシュヴァラ・デーヴァ・シャー国王はイスラムを利用してタイ軍を撃退した。西からの季節風に乗ってくるインドやアラブの商船と、東からの季節風に乗ってくる中国、琉球など東アジアの商船とが交易するのに最適な港となった。
宗教的にはイスラムの影響がつよく、文化的にはジャワ(インドネシア)の影響が強く、ジャワ文化への憧れが強かった。
1509年セケイラが率いるポルトガル艦隊がマラッカを訪れ、貿易の許可をもとめた。国王ムハムド・シャーは一旦は許可したものの、インド人やイスラム商人の反対を受けて撤回し、上陸していたポルトガル人やセケイラの艦隊に奇襲攻撃をかけた。ポルトガル艦隊は逃れたが、1511年、今度はアルプケルケが艦隊を率いて来航し、王宮を攻撃し、マラッカの市街を占領してしまった。ムハムド・シャーはマラッカを捨ててマレー半島南端のジョホールに逃れ、ジョホール王国を建てた。
ジョホール王国はポルトガルと対抗するためにオランダの東インド会社と友好関係をもち、オランダとスマトラ島北部のアチェ王国と組んでしばしばポルトガルを攻撃した。更に、1641年にオランダがポルトガルからマラッカを奪うのにも協力した。
ジョホール王国は一時は首都のバツゥ・サワ―ルを中心に国際貿易として繁栄し、マレー半島南部とスマトラと島に勢力を広げ、マラッカ王国時代とほぼ同じ位の勢力を回復した。
しかし、スマトラ島南部のジャンビ王国との戦争(1666〜79)で国力を消耗し、王位継承問題や、傭兵のブギス族(スラウェシ島を中心に活動する海洋民族)が勢力をもつなど内紛がつづき、分裂状態になっていった。ジョホール王国はリアウ(シンガポールの南の島々)、パハン二つの王国に分かれ、ペラ、ケランタン、トレンガヌ、ケダ、セランゴールなどマレー人による小王国が乱立した。
最初に東南アジア島嶼部に進出してきたヨーロッパ列強はポルトガルだった。
ポルトガルは第二代インド総督アルフォンソ・デ・アルプケルケ(1460頃〜1515)が艦隊をひきいてマラッカを占領したのは、香料をはじめとする各地からの産品の集散地がマラッカだったからだ。ポルトガルは同じ年にインドネシア北東部のスラウェシ島とニューギニア島の間に点在するモルッカ(マルク)諸島(またの名を香料諸島)まで到達し、1522年まで定期的に渡航している。そして、この地域を拠点として香料貿易に関わってきたイスラム系商人たちを駆逐した。
15世紀のヨーロッパではルネッサンスが繁栄し、香料の需要が急速に増大していた。
つぎに東南アジアにやってきたのは、新大陸アメリカを発見し、反対方向からやってきたスペインだった。世界一周を目指したマゼランがフィリピンのセブ島で死んだのが1521年。スペインも香料を目的としていた。先発のポルトガルとスペインは対立したが、スペインの関心はフィリピンへと移っていった。
1540年、イエスズ会が結成され、1543年にはポルトガル船が種子島に漂着し鉄砲が伝えられた。ポルトガルは1557年頃には澳門(マカオ)を明朝から入手し、インドのゴア、マラッカ、そしてマカオと補給線を伸ばしていった。
その頃ヨーロッパでは、ポルトガルがスペインに飲みこまれようとしていた。1581年、オランダが独立し、東南アジアへの進出を図りはじめた。一方で、1588年には英国がスペインの無敵艦隊を撃破するという歴史的快挙を成し遂げた。激動するヨーロッパで生き残りをかけて南アジア、東南アジア、南北アメリカへの進出が急がれていた。
カソリックのイエスズ会の伝道師フランシスコ・ザビエルはポルトガル占領下のマラッカにきた。
次いで、東南アジアにやってきたオランダは、まずインドネシアのジャワ島ジャカトラを占領し、1619年、バタビア市(現在のジャカルタ)を造った。1635年にはオランダはモルッカ諸島での香料の生産統制をしている。1641年、オランダがマラッカを占領した。
16世紀、戦国時代が終焉を告げ、豊臣秀吉の時代になると秀吉は海外との貿易を奨励するようになった。貿易の障害となる倭寇・海賊の討伐を促し、日本の商船が東南アジア各地に行き、外国の商船が日本にやってくるのを歓迎した。
秀吉による朱印状の最初の発行は文禄二(1593)年と言われている。徳川家康も秀吉の対外貿易政策を継承し、朱印状を発行し、相手国に対し、朱印状を持つ船には特別の便宜を与え、朱印状をもたない船との交易を拒否するようにもとめた。
朱印船貿易の時代、マラッカには慶長九(1604)年から十三(08)年の間に一回だけ朱印船が訪れている。その後は鎖国政策をはじめた寛永十二(1635)年までない。タイ南部からマレー半島にかけて領土を保有していたパタニ(太泥)へは慶長十九(1614)年までに7回来ている。ただし、その後は途絶えている。
最初の6年には19の地域に朱印状が発給されたが、元名三(1617)年以降は大きな日本人町のあったシャム、ダナン、トンキン、ルソン、カンボジア、高砂の6地域に集中している。
日本と東南アジアを結ぶ海の交易路の幹線から外れた港は除外され、貿易上も利益の少ない港も淘汰されていった。
マラッカ(摩利加)からは錫、鮫皮、肉荳寇、木綿縞などが日本に輸入されたが、輸出品の記録はない。パタニ(太泥)からは胡椒、鮫皮、象牙、錫で、輸入品の記録はない。効率が悪いということで除外されたのか、マラッカ河口が泥の堆積で船の出入りが困難になったこともあるのか、おそらく、両方の理由で朱印船の到来は途絶えたのだろう。
朱印船の到来の記録はマラッカのセントポール寺院のザビエルの遺体が安置されていたと言われる穴の脇にある石碑に、ジャポンの文字がある。 |