<番外編>

食 風 
“ネイチャーファーム・昆虫教室”同行記 その一
野鳥と昆虫の楽園フレーザーズ・ヒル
キャメロンハイランドより近いのにマイナーなのはなぜ?
■■名物?「奇数時は登り、偶数時は下り」じゃなくなった。■■
 標高1524Mのフレーザーズ・ヒル、チューダー調のバンガローやこじんまりしたしゃれた雰囲気のリゾート・ホテルがある。『The Smoke House Hotel』という。
フレーザーズ・ヒルは、たぶん、フレーザーという人が発見したのだろう。イギリスの統治時代、キャメロン・ハイランドやペナン・ヒルと同様に、植民地支配にきたイギリス人たちの避暑地だった。ここフレーザー・ヒルにもキャメロン・ハイランドにも『The Smoke House Hotel』がある。イギリス統治時代の雰囲気を漂わせたふたつのホテルは、歴史ずき、懐古趣味の人たちには最高のホスピタリティーを味あわせてくれる。実をいうと、本家っぽく見えるキャメロン・ハイランドの『The Smoke House Hotel』は1973年に造られたゴルフクラブのクラブハウスを改築したもので、フレーザーズ・ヒルの『The Smoke House Hotel』は1937年に建設されたというから、歴史的にもこっちのほうが由緒ただしい。まあ、名前は一緒でも今は経営は別だから、まったく別のホテルと考えていい。とは言え、フレーザーズ・ヒルのほうはクアラルンプールの中心、Jalan Ampangの裏通り、Jalan Mayangで『The Smoke House』という名の地中海料理のレストランも経営している。宣伝しても『日馬プレス』には何のメリットもないのだが、イギリス風ローストビーフ、ヨークシャ・プリン、ビーフ・ウェリントンなどが美味いと書いてあると、「どっちもレストランは美味いんだろうな?」と感じ、「いつか魅力的な女性とここで食事をしたいな」などと年齢を忘れて思ったりする。
とはいうものの、フレーザーズ・ヒルはわたしたちクアラルンプールに住む日本人にとっても、マレーシアにやってくる観光客にもマイナーだ。キャメロン・ハイランドには二十数回行ったが、フレーザーーズ・ヒルにはこれまで二回しか行ったことがない。この差は何か?気分的には時期によっては、日本人の中高齢の皆さんが数百人もいるキャメロン・ハイランドはあまりすきではない。会う人会う人日本人のおじさんとおばさん。つまり、わたしと同じかちょっと上の世代の人たちだ。なぜ、すきでないかについてはここに書くことはできない。キャメロン会というNPOがあって大勢の人たちがキャメロンに行くのに、似たような環境のフレーザーズ会がない。納得がいかない。考えてみた。
 
■■「ずるい!」と叫びたくなるフレーザーズ・ヒルの地理的環境■■
 数年前まで、キャメロン・ハイランドの登り道は南北(PLUS)ハイウェイのタパ(Tapah)からのスネーク・ロードしかなかった。今はシンパン・プライからの快適な登り道があるがそのどちらの道路も大部分はペラ州を通っている。それなのにキャメロン・ハイランド自体はパハン州だ。観光収入というおいしい汁のほとんどはパハン州にいく。
 同じようにフレーザーズ・ヒルに向かうワランからの道路はもセランゴール州、フレーザーズ・ヒルは州境の向こうパハン州にある。だから、クアラ・クブ・バルから20km余りから、奇数時か登りの一方通行、偶数時と下りの一方通行という「通行制限」が決められていた。面倒くさいルールは不評だった。日光の『いろは坂』が約40年前に登り下り別の一方通行になったように、フレーザーズ・ヒルもすればいいのに。観光客が2倍になってもホテルやシャレーの数は足りるのにと思った。そうだ、フレーザーズ・ヒルは観光客を拒絶しているように感じた。
 そして、フレーザーズ・ヒルのホテルやシャレー、バンガローが、避暑や家族旅行にくる中流の上クラス以上の所得層に会わないのではと感じていた。全国展開したり、国際的なホテルチェーンの運営するリゾソートホテルはない。その上、まともなレストランがない。ホテルのレストランやコーヒーハウスを利用するしかない。だから、気どった食事をするには『The Smoke House Hotel』に予約していくしかない。土産物や日用品雑貨の店もおどろくほど少ない。
■■野鳥と昆虫の宝庫に、これ以上観光客はいらない■■
 いろいろな理由があってフレーザー・ヒルはマイナーだ。でも、マイナーであることははむしろ、フレーザーズ・ヒルを愛する人たちにとっては「この雰囲気と豊かな自然をたいせつにするには、今程度で十分」という。その意味がよくわかった。先進国人とうぬぼれるわたしたちの考える国際級ブランドのもつホスピタリティーや利便性は無用の長物にすぎないと感じた。
フレーザーズ・ヒルは野鳥と昆虫の宝庫だ。マレーシア・ネイチャー・ソサエティ(MNS)が国際定期なバード・ウォッチングの大会を主催したりしている。ここには身近な位置に8本のネイチャー・トレイル(自然探勝路)がある。ガイドに案内してもらうことが不可欠だが、ガイドがいろいろなことを教えてくれる。珍しい鳥や植物が伸ばせば手の届くところにあることを教えてくれる。文明が自然の営みを侵略していることをガイドは悲しんでいる。

 人間と自然のままに生きる野鳥や昆虫がどうしたら共生できるか。むずかしい命題をあたえられる。「希少な昆虫を捕まえたらもって帰ろう」と思っていた自身を恥じた。『ネイチャーファーム』の主催者の河谷隆さんとの付き合いは長い。わたしたちが柔道教室をはじめた十三年前、河谷さんのお子さん二人が柔道を習いにきていた。同じに、異文化研究家であった河谷さんは『日馬プレス』に連載コラムを執筆してくれた。その河谷さんがパハン州のフレーザーズ・ヒル開発公社の許可を得て昆虫教室をはじめた。おもしろいから情報として掲載した。もう何年、何回になるだろう。「自分も昆虫教室に参加しよう」と思いつづけてそれきりになっていた。「行こうと思えば、いつでも行ける」、それが決断を遅らせる原因だった。

 3月31日からの教室に「参加することにした」と伝えた。もう後には引けない。実は、わたしは中学一年のときに生物が大嫌いになった。原因は生物の先生に叱られたからだ。一番悪いにはわたしだから、殴られても、正坐を2時間させられても文句は言えない。生物の時間が先生の都合で自習になった。悪友たちが「自習はつまらないから校庭で遊ぼう」と、当時、級長だったわたしに要求してきた。勉強より遊ぶほうがいいと思ったわたしは「遊ぼう」と号令をかけてしまった。翌日、職員室に呼ばれ、叱られた。「君はいつも試験の成績はいいけれど、わたしが教えている間は、君が試験で何点とっても通知表には“2”しかつけない」と言った。次の生物の試験でわたしはクラスで2,3番目になる90点以上を(狙って)とった。五段階評価だから、あの事件を除けば“5”がつくはずだけど“4”くらいかなと思った。「いくらなんでも“2”はつけられないだろう」。ところが“2”ではなかったけれど“3”がついていた。

 それで「生物」が大嫌いになった。1960年前後、昆虫は身近な存在だった。家の電燈めがけてカブトムシやコガネムシが飛んできた。家の裏の井戸のまわりには蛍が飛びかっていた。蜂の巣を叩いて蜂の群れに追いかけられて頭部を十数カ所も刺されたこともある。小学校の夏休みの宿題の昆虫採集をして、標本を作ったりした。昆虫が好きとか嫌いという以前に、すぐそこにいた。

 ともあれ、わたしの「生物」は中学一年で終わった。はっきりと「嫌いな科目」になった。

 そのわたしが昆虫教室に行くことにしたというのは「職業的良心」と「好奇心」による。「職業的良心」は、昆虫教室という情報を中味が分からないまま出しつづけたことへの反省からだ。親しくしてきた、あのまじめな河谷さんがやっているのだからという漠然とした信頼に、確証を加えるべきだと思った。それから、噂では聞いていた「巨大なカブトムシ」や「喧嘩につよいクワガタ」を見たいという欲望があったからだ。
 
 
<本稿は日馬プレス第320号(2006年4月16日)に掲載されたものです。>
     
 
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