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18世紀、ペラ州のサルタンがこの町に移り住んだ。伝統的なマレー人の竹編みの高床式の家もわずかに残されている。
イポー、タイピンとスズ鉱山の町として発展したペラ州の州都となったクアラ・カンサーはサルタンの町として経済発展とは異なる道を選んだ。
ウブディア・モスク Masjid Ubudiah
クアラ・カンサーのシンボルになっている金色のドームと、それに添うように立っているミナレット(尖塔)をもつ美しいモスク。ペラ州27代のサルタンSultan IdrisMurshidul’adzam Shah一世の命令で建立された。
建築中に、スルタンが所有する2頭の象が暴れてイタリア製の大理石のタイルを壊したり、第一次世界大戦中に壊されたりしながら、1917年に完成した。
王宮博物館 Istana Kenangan
1926年に建てられたペラ様式の木造2階建ての建物。一本のくぎも使用されていない。壁には丹念に彫られた彫刻がある。ペラ州の歴代サルタンの写真や遺品がある。また、太平洋戦争時代の日本軍に関する写真もある。入場料:無料
イスタナ・イスカンドリアとイスタナ・フル Istana Iskanndoriah & Istana Hulu
イスタナ・イスカンドリアはイスラム独特の金色のドーム上の屋根と白亜の建築は現在のサルタン(アズラン・シャー)の王宮。正面ゲートはペラ川に面している。ウブディアモスクに向かい合っているビクトリア調の白亜の建物は1903年に建てられた王宮の別館でイスタナ・フルと呼ばれている。
サルタン・アズラン・シャー・ギャラリー Galeri Sultan Azlan Shah
温厚な人柄とでありスポーツマンとしても親しまれているサルタン・アズラン・シャーご夫妻の学生時代からの写真や記念品が展示されている。入場料RM4.
カライ(KARAI)鉄橋
太平洋戦争初期の1941年12月、日本軍の猛攻に後退するイギリス軍は、日本軍の進撃を食いとめようと次々に鉄橋を破壊していった。日本軍の諜報機関のF機関(藤原岩市機関長)に所属した「マレーのハリマオ」こと谷豊とマレー人の部下は橋梁の破壊を阻止しようと活躍した。地元の人の説明では、カライ鉄橋は破壊されなかった数少ない橋梁の一つで、現存している。近くには守備隊が駐屯したトーチかも残されている。森山康平著『マレー・シンガポール作戦』フットワーク出版社刊によれば、クアラカンサー付近の鉄橋は三つともイギリス軍によって爆破されたと書かれている。第五師団河村部隊の先遣隊としてペラ川を渡河した上田勝中尉は「河幅二百五十メートル、流速二〜二.五メートル。折りたたみ浮舟よって渡河準備はできた。」とあり、浮舟で渡ったらしい。幸運にも渡河中の攻撃はなかった。日本軍は難なくイポーに到達したという。
カライは古い町で、戦後、マレイ共産党の拠点ともなった。マレイ連邦は中国人たちを鉄条網で囲った集落に押しこめた。 |
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| ■■MERU SUITES Service Apartments■■ |
イポー市郊外のMeru Vally Resortは27ホールのゴルフコースと様々なスポーツ施設、バンガローハウスやコンドミニアム、アパートメントのある広大なリゾート。「メル・スイート」は緑の自然に包まれた、のんびりゆったりゴルフをたのしむ人たちのための宿泊施設。ロングスティ用と、ショートスティ用がある。ゴルフコースを望む部屋は基本的には2ベッドルームで4〜6人が宿泊できる。
日本人のロングスティヤー向けに10室、ショートシティ用は19室用意されている。宿泊客はメル・バレー・ゴルフで安い料金でゴルフをたのしむことができる。6ヶ月以上滞在する人には会員権が1,000リンギ、あとは月会費のみという特典もある。
MERU SUITESからゴルフ上のクラブハウスまでは備付けのバギーで移動できる。また、イポーにあるJUSCOまで、週二回バスが運行されている。
日本語の堪能な女性スタッフのグロリア・チョンさんに連絡を。
Tel:05‐529‐3303/529‐3333
Fax:05‐529‐3332
website: http://www.meruvalley.com.my
email:sales@meruvalley.com.my |
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神保康広さん
神保康広さんは1970年6月16日、東京で生まれた。育ったのは埼玉。16歳のときにバイクの自損事故で下半身付随になった。人生を失ったとの思いで絶望の日々を1年半送った。
18歳のときに車いすバスケットボールと出会った。90年から車いすバスケットボールの「千葉ホークス」に入った。強豪で知られる「千葉ホークス」のメンバーのプレーは、車いすにベルトで足や上半身を固定し、車体ごと相手選手にぶつかっていく。倒れても平然と起きあがってプレーに戻る。激しい闘志をむき出しにしていた。
「千葉ホークス」は、昭和44年に労働災害者の訓練施設(白子作業所)の「千葉作業所チーム」という名前で誕生した。昭和60(1985)年に拠点を千葉市内に移し「千葉ホークス」となった。ちームができて36年間に内閣総理大臣杯全国大会に11回優勝している。
神保さんは92年のバルセロナ・パラリンピックに初めて日本代表として出場した。アトランタ、シドニーとパラリンピックに出場したが、一方で、障害者スポーツ全般のことを学びたいと思い、99年に勤務していた千葉市役所を辞め、奨学金を得てアメリカのアラバマ州レイクショア財団の研修生として1年間勉強しながら、同財団のサポートする車いすバスケ・チーム「ストーム」に所属し、2000から2001年、全米車いすバスケットボール協会(NWBA)のデビジョン2で活動し、チームは全米選手権で優勝した。2002年からはデビジョン1の「デンバー・ローリング・ナゲッツ」の参加した。この間をぬって、障害をもつ子供たちがスポーツに参加してもらうことを目的とした「バラエティ・クラブ・ジャパン」などにも参加している。
2002年のオフに千葉市内に本社がある車いす製造・販売会社に入社し、仕事にバスケに活躍している。転勤で福岡に移住した03年9月からはチーム活動が困難になり、04年夏、筑豊から福岡にかけての選手を集めて「福岡Limitz」を立ち上げ、選手兼アシスタントコーチとして活動している。現在は福岡県飯塚市に在住。 |
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