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柔道が祐介君の世界を変えた
ダウン症の青年が初段に挑戦 その一 |
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渡邉明彦 |
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赤尾祐介君という19歳の青年がいる。お父さんの仕事の関係で8歳のとき、11年前にシンガポールにやってきた。
祐介君は知的障害や心疾患などの障害をもつダウン症の青年だ。恥ずかしがりやだが優しく穏やかで周りの人たちを自然と和ませてくれるような人柄だ。両親はそんな祐介君が健常児とともに学び普通に生活してほしいと願っていた。
日本では幼稚園や保育園、小学校、中学校までふつうの教育機関に通っている子も多い。その後は個々の障害の程度や性格などに合わせて養護学校に通ったりする。シンガポールにやってきて、最初に躓いたのが学校の問題だった。ほとんどの日本人の子供たちの行く日本人学校では「(学校に)障害児に対応できる教員も設備もないので、すぐには入れない」、「学校として特別なことは何もしません」と言われた。それでも入学させてほしいと言うと、「けがをしても学校側では責任をもちませんよ」とまで言われたという。だがその後、障害をもつ子供のお母さん方の頑張りと、新たに赴任された理解ある先生方の支援により特別障害児学級ができたので、小中学部を通じて祐介君はそこに在籍した。また、サッカーなどのスポーツの日本人のグループに入ろうとすると、「今までそういう子を受け入れた事がないので……」とか、「怪我をしたら困る。」等の理由を言われ断れたこともあったという。
祐介君のお父さんの良一さん(三段)は学生時代に柔道に打ちこんでいた。祐介君が11歳のときに、お父さんは祐介君をシンガポール柔道連盟の道場につれていった。道場はシンガポール人や日本人だけでなく、イタリア人もいればイラン人もいる国際色が豊かな柔道クラブだ。
指導にあたっている先生たちも、練習にくる子供も大人の選手たちも、ふつうの子供と何の変わりもなく受けいれてくれた。(指導者として道場に来られた順に、)池井宗之(ロサンジェルス在住。現三段)、岡本美臣(帰国。現六段)、宮河憲和(帰国・三段)、加藤浩伸(帰国・現五段)、長谷部良夫(帰国・四段)、相川進一(帰国・三段)、藤村 小弥太(帰国・現四段)、今泉 一隆(帰国・四段)、高橋 義晴(三段)、勝山 泰宏(二段)、そして、イタリア人のパブリッシオ(二段)やイラン人柔道家のコダダディなどの先生方が、今まで祐介君やほかの子供達を指導してきた。ともすれば気分がのらないで自分のなかに閉じこもってしまうことのある祐介君の肩を抱いて「柔道をやろう」、「一緒に練習しよう」と必死に励ますお父さんと一緒に先生方が声をかけ畳の上に導いてきた。道場の全員がやさしさとスキンシップで祐介君と接した。そして、祐介君は柔道を通して、一人の人間として外の世界に顔を向けるようになった。
畳の上に上がると、準備体操、補強運動、受身、打ち込み、乱取と、祐介君はほかの子供たちと一緒に練習した。先生たちがほかの子供に対するのと同じように、いい技をかけたときには「よーし。いい技だ」とほめると、うれしそうにしてどんどん技をかけてきた。前回り受身が苦手でなかなかうまくならなかった。中学生になって、歳月がかかったけれどできるようになった。それからは、自分から積極的に前回り受身を繰り返し練習するようになった。
マレーシアのクアラルンプールにあるバングサ柔道クラブの子供たちとの年に一度の交流試合にも毎年参加するようになった。攻めが遅い祐介君は、試合ではなかなか勝つことができなかった。2004年、マレーシアの古都マラッカで交流試合があった。審判の「はじめ」の声とともに祐介君は相手に向かっていった。そして組むなり大外刈をかけた。「一本!」。これぞ大外刈という見事な技での一本勝ちだった。投げた祐介君も、投げられた選手も、審判をしていたわたしも、一瞬おどろいた。観戦していた坂元英郎先生(八段)が大きくうなづいた。両親の目が潤んだ。
「健常児に勝った」。この一本勝ちで大きな自信を得た祐介君は大きく成長した。柔道にもそれまで以上に積極的に取り組むようになった。講道館の先生がその年の12月に昇段審査のためシンガポールに来てくれることがきまって、今泉先生が祐介君に初段の審査を受けてみるように勧めた。だが、そんな夢のようなことはと両親は最初固辞した。だが、今泉先生は「自分も一緒に教えるから頑張ってみましょう」と繰り返し言って、「挑戦することが大切なのだ」と皆で祐介君を励ます日々がはじまった。
いよいよ当日、講道館国際部の藤田真郎先生と道場指導部の向井幹博先生、マレーシアから坂元英郎先生(八段)とわたし渡邉明彦(五段)が立会いにきて昇段審査が行われた。受身はなんとかこなした。投の形ではパブリッシオ先生が受になった。投の形は日本の初段の審査でも何組かに一組は順番をまちがえたり、できなかったりする。ミスらしいミスをせずに形の審査を終えた。向井先生が祐介君と乱取をした。祐介君は得意技の大外落と大外刈、背負投をとりまぜながら積極的に攻めつづけた。藤田先生も坂元先生も納得した表情でうなづいていた。
審査のあと、藤田先生から審査結果の発表があった。祐介君は六ヶ月後に坂元先生が再審査をし、柔道の習熟度が向上し、初段にふさわしい実力があると認められれば初段に推薦するという結果だった。「半年の間に今まで以上に柔道をすきになってほしい。柔道のすばらしさを体感してほしい。そうすれば、もっともっと形も上手になるし、技にも磨きがかかる。誰が見ても初段にふさわしい実力の持ち主になってほしい」という藤田先生と向井先生の思いが伝わってきた。
藤田先生の報告で祐介君の挑戦を知った、前人未到の203連勝や全日本選手権大会9連覇、ロス五輪で金メダルなどの偉業をなしとげた山下泰裕先生とアテネ五輪柔道女子70kg級の金メダリストの上野雅恵選手が祐介君に激励の色紙を贈ってくださった。最高の柔道家の二人が関心をもってくれた。激励してくれた。祐介君にとってもご両親にとっても夢のような出来事だった。
不可能だと思っていたことが、手が届くかもしれないところまで近づいてきた。もう一歩でも、二歩でも前に行って、黒帯をしめてみたい。ふたたび雄介君の挑戦がはじまった。今泉先生、お父さんの赤尾先生を先頭にすべての先生、一緒に練習する仲間たちが協力した。お母さんが雄介君を支えた。そして、弟の俊介君も柔道着を着て一緒に練習した。
2005年7月16日、シンガポール柔道連盟の道場に、再審査のためにマレーシアから坂元英郎先生とわたしが訪れ、パルガ・シン・シンガポール柔道連盟会長がわたしたちふたりを迎えた。この日の再審査は二名、一人はシンガポール人のウィさん、もう一人が祐介君だった。二人とも緊張の極にあって、がちがちに固くなっているのがよくわかった。ウィさんは肩に力が入りすぎてややぎこちなかったので、わたしから「リラックス.リラックス」と声をかけた。ウィさんも半年の間にずいぶん進歩をしていた。坂元先生から少し技術的なアドバイスをして合格になった。
祐介君は受身の前に自分の中に閉じこもってしまいそうだった。わたしが「ほら、こうやって、いっしょにやろう」と言って前回り受身を見せたら、前回り受身をはじめた。まあまあ。つぎに後ろ受身を指示すると、ひじょうにうまくできた。わたしが「うまいじゃないか」と声をかけた。たしかにウィさんよりもうまい。ゆとりができたのか、横受身も同じくウィさんより上手にできた。そして、この日の投の形の受はお父さん。さすがに親子だけあって、取の祐介君と受のお父さんの息がぴったり合って、流れるように演武した。そして、技の習熟度のテスト、坂元先生と乱取。よしよし。坂元先生がうなずいた。
坂元先生とわたしの推薦、パルガ・シン会長が承認して二人は初段の再審査に合格した。このあと、推薦書類が講道館に届けられ、審査会が認めてくれれば初段、黒帯を締めることが許される。
オリンピック競技である柔道は世界中の人々に愛されるスポーツとなっている。視覚に障害のある人や聴覚に障害のある人々もできるスポーツとして障害者のスポーツの祭典であるパラリンピックの競技種目になっている。盲人であっても聾唖者であってもわたしたち健常者と一緒に柔道をたのしみ、ともに汗をながすことができる。それだけではない。知的障害のある人々も同じようにできる。
祐介君はわたしたちにいろいろなことを教えてくれた。わたしたちは、勇気をもって目標に向かっていくことが大きなエネルギーになることを知った。もっと多くの人たち、もっともっと多くの障害のある人たちも柔道というスポーツを愛する仲間になってもらえるということを知った。そして、柔道は祐介君に「自分はふつうの人たちと同じ世界に住んでいる。頑張れば、ふつうの人たちに勝てる。黒帯にもなれる」という勇気を与えた。
知的障害をもつ子供の親の思いは様々と思われる。祐介君の両親はこんなことを語ってくれた。「わたしたち知的障害をもつ子の親は(子供に)そんなに多くを望んでいないのではないでしょうか。祐介の場合は生死の境を乗り越えよくここまで大きくなってくれた。そのことだけで本当にうれしいのです。そんな祐介が健常児の中に加わり柔道をし、さらに大きな目標をもち共に努力していく先生や仲間を得ることができました。わたしたちだけではとても与えられない陽光の当る場所に引き上げていただきました。親はただ知的障害がある子供が不憫であったり、愛しさだけで強く守りすぎてしまったりとなかなか新たな挑戦に向かえません。それは子供を誰よりも近くで見ているために、その子の能力の限界を知ったつもりになり、これ以上のことを望むのは可愛そうだというような思いかも知れません。小学生の頃までは祐介もありとあらゆる厳しいダウン症の早期療育に取り組み、健常児に少しでも近づくよう努力しました。でも健常児とは決定的な違いがあることにある時気づき、ならば、この子らしく優しく穏やかな日々をともにすごせればよいと思うようになりました。柔道もでんぐり返しができるようになるかなとか、少しでも上手に転ぶことができるようになってくれればよいと願ってはじめました。それが、この八年という月日の中で少しずつ成長していく彼がいたのです。『頑張れば祐介君はきっとできる』と今泉先生は言って下さいました。そして初段に挑戦という大きい目標をわたしたちに下さり、あの早期療育プログラムを止めた時以来の困難な目標に向かい家族一同祐介の応援団としての日々が始まりました。柔道の稽古を中断していた弟の俊介も必死に祐介の練習相手をしてくれました。柔道を通じての素晴らしい出会いが、祐介だけでなく家族の私達にも生きがいを与えてくれたのです。
知的障害を持つ子供の親は、いつも一歩引いて、我が子がその社会の中に受け入れられているか、祈るような思いで見つめています。健常者と知的障害者がメ共に生きるモということは本当はとても難しいことだと思います。お互いを知る機会はほとんどないのですから。ましてや容赦のないスポーツの世界ではなおさらでしょう。でも一緒にやろうという思いをもってくださる方がいれば、それも決して無理ではないのだということを、わたしたちは祐介を通して学びました。勝ち負けだけではないたのしみ方、取り組み方があるのです。柔道は心を育て家族の絆を深めてくれました。今はこれまで支えて下さった皆様に感謝の気持ちで一杯です」。
どんな人であっても同じように、柔道をやりたいと心から思う人々を受け入れて、一緒に汗を流していきたい。柔道をたのしんでいきたい。祐介君はわたしたちにそんな当たり前のことだけど、わたしたちが忘れてしまいがちのことを思い出させてくれた。
柔道はすばらしい。
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| この文は、講道館発行の月刊誌『柔道』三月号に講道館国際部の藤田真郎先生が書かれた「バングラディシュ・シンガポール巡回指導報告」の記事の続編であり、補足したものです。『柔道』三月号では「今回の受験生の中に障害者の日本人青年もいた」と書かれているのが赤尾祐介君です。ご両親などの了解を得て本名を書かせていただきました。この文を読んで、一人でも多くの障害のある皆さんが柔道をたのしんでもらいたい、柔道によって生きるよろこびを得てもらいたいと、心から願っています。 |
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