高校野球にかかわるすべての人々は
聖人君子という錯覚
外傷を負わせるのが暴力で、
無視や連帯責任は暴力でないという錯覚
渡邉明彦
  未成年に聖人君子であることを義務付ける高野連いい選手に育ってほしいから手を上げてしまう
高野連やメディアは聖職者?それとも裁判官?
 
 夏の甲子園大会直前に野球部員の不祥事が明るみにでて、出場を辞退した明徳義塾高校。感動の連覇を遂げた駒大苫小牧も部長の暴力(?)事件で優勝旗返上の危機に陥っている。
 高校野球を野球少年たちの夢の舞台に仕立てて、教育の場という聖域にし、野球部員たち、監督やコーチ、部長など高校野球に(部員の保護者を除く)関わるすべての人たちが聖人君子であることを義務づけてしまった日本高等学校野球連盟(高野連)と、感動と不祥事の押し売りとにに群がるメディアとが自己満足の特殊な世界を構築している。
 
未成年に聖人君子であることを義務付ける高野連
 全国の高校の野球部に所属している高校生が全員、監督もコーチも部長も聖人君子であると信じている人がいるとしたら異常だ。聖人君子の集合体であるはずの宗教法人が設立母体となっている高校の理事や宗教指導者たちでさえ、こんなことは言わない。高校生は法的にも未成年であり、人格形成の途上にあるとみなされている。いたずらもすれば、喧嘩もする。とくには羽目を外して法律を犯してしまうこともある。そうした少年たちにやってはいけないこと、人として許されないこと、犯罪行為などを教えるのが、大人である両親の務めであり、学校の務めでもある。それでも、生徒の中にはやってはいけないことを繰りかえす子が何人もいる。
 小学校高学年、中学、高校と十代は試行錯誤の時代でもある。いいことも悪いこともやる。そうすることで、社会の反応を見る。そして、成長していく。誰が見てもいい子で、誰からも叱られたことがない、親のいう通り一生懸命勉強し、一流大学、一流企業や高級官僚への道を歩んでいく人が正常な人格者だと感じることができるだろうか。何かおかしい。気がつくと、賄賂を受け取る側になっていたり、贈る側になっている。企業でも官庁でもいい子でいようとすれば、知らず知らずのうちに、そこにある汚濁にまみれてしまう。
 考えるまでもなく、甲子園に出場するような高校の野球部員は大なり小なり「井の中の蛙」だ。とくに私立の強豪高校はリトルリーグ時代から家族ぐるみで野球漬けの生活を送ってきた少年たちが多い。両親の過保護によって育った少年たちが、中学生のころから地方のメディアにもてはやされ、本人も両親もスター選手になったような錯覚に陥っている。高校に入り、他校からきた自分よりもっとすごい選手が大勢いることを知る。挫折と希望の狭間で、必死に頑張っている。それでも補欠にもなれない。両親は自分の子供がレギュラーになれないのは指導者たちが悪いからだと思いこむ。ときには、選手は投げやりになり、指導者に反抗したり、下級生をいじめたり、煙草を吸ったりすることもある。
 甲子園で活躍し、スターになった野球部員がパチンコ屋で煙草を吸っていた。高校三年にもなれば、だれでも一度はやってみたいと思うことだ。それを待っているカメラマンがいる。それをクローズアップするメディアがある。非難されるべきは、悪戯心で不法行為をしているスター選手を「そんなことはなめなさい」と注意しなかった大人であるカメラマンだ。この写真を公表したメディアも非難されるべきだ。やってはいけないことをやれば、不法行為をすれば痛い目に遭うと、直接教えてやるのが十代の少年への接しかただ。
 わが身をふりかえって、高校時代に反社会的行為や不法行為をしたことがないと言える人はどれだけいるだろう。かくいうわたしも、悪戯心で煙草を吸った。同級生と喧嘩をした。先輩と屋台で酒を飲んだ。授業をサボってパチンコ屋に行った。食堂から胡椒のビンをもちだした。友人の定期券で国鉄(現在のJR)に乗った。煙草のときは、それを見咎めた上級生にきつく叱られた。不法乗車のときは車掌さんにやさしくさとされた。中学生のころは毎日のように先生に立たされ、ひっぱたかれ、殴られていた。一番つらかったのは、先生のあだ名を壁に大書したときに職員室に二時間坐らされたときだ。自習の時間にクラス中を煽動して校庭で遊んでしまったときには、その科目の先生に「君がどんなにいい成績をとっても、通知表には2しかつけない」と言われたこともある。
 学校で先生に叱られた。殴られた。立たされた。ということが母親に伝わり、父親に知られたときには学校での何倍も叱られ、殴られた。「家から出て行け」と怒鳴られたのも数えきれない。言い訳は許されなかった。「おまえが悪い」。それだけだった。だから、学校であったことは、例えほめられるようなことでも秘密にしていた。家で兄と喧嘩をしたときも、怒られるのはいつも自分だった。
 学校で先生に叱られる。殴られる。立たされたり、坐らされる。原因はいつも自分にあり、自分が悪いと理解していた。でも、次の休み時間に職員室に行くと、さっき怒っていた先生が笑顔で迎えてくれて、当時、人気があった巨人の川上やルーキーだった長嶋の話につきあってくれる先生もいた。中学時代の先生たちとは、卒業後も親交がつづいた。
 高校時代、わたしは柔道部に所属していた。人数の足りない相撲部にもかりだされた。いくら参ったをしても首を締める手を緩めてくれない先輩もいたし、立っている隙もないくらい投げられたこともある。土俵の上から、土俵の下にたたきつけられたこともある。苦しかったこと、つらかったことはいくらでもある。そうしたことを“いじめ”とか“しごき”、“暴力”と感じたことはない。家で両親にこんなことがあったなんて言えば、「いやならやめろ」と言われるのは火を見るより明らかだったから、鎖骨を折ったときも、両親には骨折したとはばれないようにしていた。高校時代、怖くて怖くてしかたがなかった先輩や先生のことは、いまでも尊敬している。
 もちろん、わたしは二十年前に死んだ自分の父親を敬愛している。すばらしい父親だったと思っている。軍国主義に向かっていた戦争前、戦争中、終戦後、苦しい生活を時代を生き抜いた父は、引退後にやりたかったことが山ほどあった。定年になって時間ができたとおもったら、まもなく死んでしまった。父のやりたかったことを畑違いだが、わたしがやっている。そんな気がする。
 
いい選手に育ってほしいから手を上げてしまう 
 わたしは人間的に未完成の野球少年たちに「全員、聖人君子であるべきだ」ときめつけるのは愚かだと思う。少年たちは過ちをおかすことも含めて、さまざまな経験をしながら成長していく。もちろん、成人になっても過ちはある。人間は所詮人間であって、神様でも仏様でもない。
 監督やコーチ、部長など指導者が野球部員を叱るのは当然だ。ときには痛みをあたえることもある。痛みを受けてはじめて、自分の行為の善悪が分かることもある。カッとして、感情のままに殴ってしまうのは暴力かもしれない。でも、冷静に考えてみれば、その部員がよくなってほしい、いい選手に育ってほしいと思わなかったら、無視するなり、練習に参加することを禁じてしまえばいいのだ。そうしないで、叱り、手を上げるのは、その部員に成長してほしいという期待があるからではないか。「頑張って、レギュラーのポジションを手にしてほしい」と願うから、ついつい手が出てしまうこともあるのではないか。練習を禁じられた野球少年、それによって受ける精神的苦痛のほうが、少年にとってはいく倍もつらいのではないか。
 手を上げるのは暴力。しかし、“しかと(無視)”という精神的苦痛は暴力ではない。どちらのほうがダメージが大きいか。どちらのほうが悪質か。今回の暴力事件の中で、8月に「スリッパでひっぱたかれた」というのもあったが、たぶん、これだけなら、二、三週間たっても消えない青あざでもできないかぎり、一般にいう暴力事件とはならないだろう。しかし、平手でひっぱたいたり、拳骨で殴ったりするのが暴力で、スリッパで叩くのは暴力ではないというのはおかしい。平手や拳骨は殴る側にも痛みが伴うし、殴る側にも指導のため、この部員のためという思いがある可能性がある。一方のスリッパは肉体的な痛みは少ないが、叩く側には憎悪を感じるし、叩かれる側には屈辱という精神的な傷を負わせてしまう。どちらのほうが痛みは大きいか。そうやって考えると、野球部員全員はもちろん一生心に消えることのない傷を負わせ、学校全体の生徒が精神的な苦痛をかんじる連帯責任という名の仕打ちこそ、もっとも大きな暴力のような気がする。
 
高野連やメディアは聖職者?それとも裁判官?
 それでも、高野連や大手メディア、文化人、人権弁護士はしたり顔で「暴力はいけない」と言う。そして、「話せば分かる」、「手を上げるのは暴力だ」という。「話せば分かる」、それで全員が正しい道を歩きはじめるのなら刑務所はいらない。
 暴力をしたいがために高校生に野球の指導や生活指導をしている指導者は絶対にいない。ただ、指導者は、厳しさが伴う指導にあたるときには、怒られる選手部員が「なぜ、怒られるのか」をきちんと理解させる必要がある。それは言葉による説明だけでなく、日常での指導方針や指導態度、選手部員との接し方にも配慮する必要がある。ただ、どんなに選手部員のことを思っていても、それが伝わらないこともある。過保護な両親によって育てられた少年には伝わらないことがある。それでも、ほとんどのスポーツの指導者たちには、自分の教え子たちに向けた熱い思いがある。「できの悪い部員であってもいい選手になってほしい。例え、レギュラーになれなくても、一生野球を愛しつづけてほしい」と願って手を上げた行為を、「暴力」の二文字で表現してしまうのは間違いだと思う。
 甲子園まできて出場辞退に追い込まれた高知県の明徳義塾の野球部員たちの受けたトラウマ(精神的外傷)がどれほど大きいか? 三年生部員の無念さ。密告した元野球部員とその親への恨みつらみが燃え上がる。十代の少年たちがこの親子を一生恨みつづける。被害者だった少年は否応もなく退部して元部員になり、十中八九退学することになる。彼を受け入れてくれる高校も野球クラブもないだろう。地元苫小牧ではどこのだれというのは知れ渡っている。部員の苗字がネットでは飛び交っている。友人も知人もすべて失ってしまうのだろう。息子に託した欲がらみの夢と、慰謝料欲しさの欲とで、この父親は息子のこれまでの人生のすべてであった野球を奪い、かれの未来をも奪ってしまった。
 これが高野連の目指す教育なのだろう。
 高野連というのは野球関係聖職者連合で、高校野球の感動と不祥事をもてあそぶ大手メディアは裁判官にでもなったつもりでいるように見える。「暴力はいけない」、「隠蔽したのはもっといけない」と父親の味方になって騒ぎ立てた高野連もメディアも、騒ぎが収まってしまえば、この親子の行く末には関心をもたないだろう(本当は、そっちのほうが問題なんだが)。高野連とメディアの目は次の不祥事が起こるのをまちつづける閻魔大王の目のようだ。
     
 
   
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