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7月31日に、膵臓がんで治療中だった作家の吉村昭さんが亡くなった。前日、三鷹市の自宅で看病していた娘に「死ぬよ」と言いながら、点滴の管と薬剤注入のためのカテーテルポートを自ら引き抜いて、数時間後に死亡した。79歳だった。このことは8月24日に催された「お別れの会」で妻で作家の津村節子さんが集まった人々に語った。無用な治療を拒み、自ら死を選択した「尊厳死」には賛否両論があった。
舌ガンから膵臓へとガンが転移し、今年、全摘手術を受けた。7月10日頃から病状が悪化していた。体調のいい日には、遺作となった幕末の医師佐藤泰然が高額の投薬を拒否し、死を選ぶという物語の推敲をしていたという。病院から24日に自宅に戻った。自宅で妻と娘に看取られながら、死を自ら迎えた。
宗教者からの「吉村さんの尊厳死」否定論はあまり多くはなかった。ただ、津村節子さんが「自分の死を決めたことは、彼にとってよかったのかも知れません。でも、わたしは目の前で自決する姿を看取った。あまりにも勝手な人」と複雑な思いをかかった。
意外だったのはキリスト者である作家の曾野綾子さんが9月18日付けの読売新聞に「吉村氏は限りなく人間として自然な備えと自分らしい選択を端正に用意された」として、人間の最後の瞬間の思いはその人と神仏だけの聖なる暖かい会話であるから、他人が容喙(ようかい)すべきものではないと書いている。いい文章だと感じた。
昭和2年生まれで太平洋戦争の最中に青春時代を送った吉村さんにとって「死」は身近な存在だった。自身も20歳のときに当時は不治の病と思われていた結核を患い「死」と対面した。夫婦で作家を目指すという信じられないような窮乏生活。四回も芥川賞候補に挙げられながら受賞できなかったばかりか、妻の津村節子さんが受賞してしまったという挫折感。そうしたことごとを乗り越えて、自分を見失うことなく歩きつづけてきた人だけに、最後の選択には納得がゆく。
わたしにとっても「死」は他人事ではない。11年半前に転移性リンパ腫というガンになった。幸運にも多くの友人と病院、医師、看護士にめぐまれて生還することができた。2年半前には脳梗塞で緊急入院した。このときも現代医学に助けられた。「死」と二度向きあって、誰にも必ず訪れる「死」を他の人よりも真剣に考えるようになった。親しい友人でもある医師から「ガンの治療に大量の放射線を被爆しているから、10年後に放射線が原因となるガンになる可能性がある」と言われた。それを聞いて、10年も生かしてくれる神に感謝した。生きている限り、自分のやりたいことを精一杯やろう。たのしもう。そして、生きるための努力をしよう」と思った。その執行猶予10年をすぎて、まだ元気に生きている。
遠くない将来、必ず「死」がわたしを迎えにやってくる。だから、吉村さんの死に様はわたしにとっていいお手本となった。もちろん、吉村さんのように妻と娘に看取られ自宅でというような、ある意味で幸せな環境で迎えられる「死」がわたしにあるとは思わない。好き勝手に生きてきたという思いがある。だから好き勝手に死んでいく、それでいいと思っている。
今考えているのは、今度「死」を覚悟する事態になったら、もう現代医学のお世話になるのは絶対にやめようということだ。身体に危険な兆候があっても病院には行かない。誰にも頼らない。どんな情況にあっても、ふだんと同じように、やりたいことを思いっきりやり、最後まで人生をたのしんでいたい。動くことができる限り、日課となっている公園やジャングルでの散歩は欠かさないし、何となく元気になるようで飲んでいる生薬を飲みつづける。ずっと飲んできた血圧降圧剤だけは、これまで飲んできたんだから飲みつづけようと思っている。(脳梗塞防止の薬はなかなか手に入らないので服用はしていない。)自然の「気」を利用して自分の身体にある免疫能力を高める努力をするつもりだ。
まあ、現実にそんな生活ができるかというと、難しいだろうなとは思う。だから「できる限り」と言うしかない。
今は健康といえば健康。でも、11年半前に右頚にできたガンの治療での後遺症はけっこうつらい。頚から肩にかけての筋肉の激しいこりや傷み、右腕は横から上に上がらない。食べ物を飲み込むのに大変な苦労をする。喉に使えて窒息しそうになる。喉の奥の粘膜が切れ、最近は頻繁に出血する。そのうち声が出なくなるような気がする。
刑法の執行猶予はすぎてしまえば無罪放免だが、病気の執行猶予はいつかは必ずやってくる。1年後、2年後、3年後、いや10年後も「まだこないなあ」と言っているような気もする。「そろそろかな」という気もする。「死」がいつきてもいいし、こなくてもいい。運命に従って、自分らしく生き、自分らしく死ぬ。吉村さんの死は、そんなことを考えさせてくれた。 |