『サンダカン死の行進』
2,400名あまりの捕虜の生存者6名
  渡邉明彦
   
 
   日本では山崎朋子の『サンダカン八番娼館』で知られるサバ州第二の都市サンダカンは、第二次世界大戦が終わるまでは北ボルネオの政治・商業の中心地だった。ボルネオ島東海岸にはブニューなどに油田がある。ここに司令部を置く日本軍にとっては生命線とも言える要衝だった。サンダカン郊外の日本軍のサンダカン捕虜収容所には、約1,800名の豪州兵と約600名(700名という説もある)の英国兵の捕虜が収容されていた。
 日本軍のインドネシアのアンボン島に設置した捕虜収容所での出来事は映画にもなったが、それでも収容されていた捕虜528名のうち123名が生存している。サンダカン収容所の場合は生存者が6名しかいない。
 日本軍が勝利に浮かれていた頃のサンダカン捕虜収容所の待遇は、重労働に従事する捕虜には米750gと野菜など600g、重労働ができない捕虜には米が550g、野菜類が400gと比較的恵まれていた。少しだが、牛肉やバナナ、亀の卵などの自給も許されていた。しかし、戦況の悪化につれ食量事情も悪化し、ボルネオ島の北側。連合国軍が東側の制空権、制海権を握ったあとは、労働する捕虜には米300g、病人には米200gと悲惨なものとなっていった。実際には米は100g少々で、あとはタピオカやサツマイモなどが支給されたらしい。1944年6月頃から、栄養失調や病気で死亡する捕虜がふえ、埋葬に必要な棺桶の製作が間に合わないほどだったという。
 1945年1月10日、連合国軍による海と空からすさまじい攻撃を受け、街の建物のほとんどが破壊され、飛行場が使用不能となったサンダカンの日本軍は、連合国軍の上陸が見込まれるサラワク方面の守備を固めるため、物資の移動を兼ねて、兵力と捕虜も移動させようと考えた。
台湾人が多く含まれていた日本兵に促されて、捕虜たちは4日分だけの食糧をもち、数十人ずつに分散されて移動をはじめた。
 サンダカンからキナバル山麓の街ラナウまで、ジャングルの中を260kmも移動させようという途方もない命令だった。希少動物の宝庫でもあるボルネオ島の熱帯雨林の中は、巨木と、それにからみついた蔦などの寄生植物や雑草、コケ類で歩行は困難だった。しかも、雨季。軍靴を脱ぎ、裸足で深さ20cmにもなる枯れ葉にまみれた泥水の中を行進した。巨大な蛭(ヒル)や様々な害虫、ときはコブラなどの毒蛇やサソリ、あるいは猛獣に襲われながら、歩きつづけた。日本兵も連合国軍の捕虜たちも、多くが熱帯性潰瘍に冒された。
 日本軍の捕虜移動の第一陣の総責任者の山本大尉は途中に数箇所の食糧などの補給所の設置を求めたが、司令部は拒否し、「落伍者をだすな」つまり、「落伍しようなものは処分しろ」という命令を出した。
 それでも、半数以上の捕虜が中継地点のバギタナンやラナウに到着したが、衰弱と熱帯病によって次々に死亡していった。
 2月6日出発の第一陣の捕虜は470名、5月29日出発の第二陣は536名だった。
 第一陣が出発したあと、サンダカン捕虜収容所には約1,300名の捕虜がいたというから、
まだ、700名あまりの捕虜が残っていたはずだった。もっとも、当初、2,400名いたはずの捕虜のうち470人がラナウに向けて行進して行ったのだから、収容所に残っていた捕虜は1,900人あまりのはずだ。それなのに1,300名というのはおかしい。と思えるほど、多くの捕虜たちが衰弱と熱帯病で死んでいったのだ。
 記録では700名あまりいるはずのサンダカンに生き残っていた捕虜の数は260名、やはり、多くの捕虜が次々に死んでいった。そして、司令部の命令を受けた森竹中尉は6月9日、岩下少尉が率いる37名の日本兵に75名の捕虜をラナウに移動させるように命じた。この第三陣の行進は生き残ってラナウにたどり着いた日本兵一名を除いて全滅した。
 サンダカンに残された連合国軍の捕虜は185名だった。ほとんどが衰弱しきって身動きできない状態だった。日本軍は収容所の建物に火を放っていった。残された捕虜たちは雑草の茎や葉、根を食べて飢えをしのごうとした。それでも捕虜たちはどんどん死んでいって残りは50名になった。森竹中尉は放っておいても自然に死ぬだろう27名を放置して、部下に命じて23名を銃殺した。
 第二陣の捕虜の多くは最初から衰弱していたという。寝る間も惜しんでの行進で、落伍する捕虜が続出した。ふらついている捕虜を、監視兵は銃床で殴りながら追い立てた。ほとんど動けなくなったことごとく捕虜は日本兵によって銃殺されていった。
 ラナウに生きてたどり着いた連合国軍の捕虜たちも、十分な食糧も医薬品もないまま、熱帯のジャングルの中の過酷な行進による衰弱と栄養失調、マラリア、デング熱、潰瘍といった熱帯特有の病気で死んでいった。
 そして、2,400名以上収容されていたサンダカン捕虜収容所に収容されていた捕虜のうち、第二次世界大戦後まで生き残ったのは、ラナウから逃亡した4人と、ジャングル内ではぐれて現地人に助けられた2名の、たった6名だった。
     
 
   
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