内股にこだわりつづけた井上康生選手に拍手
  渡邉明彦
   
 
   4月29日に日本武道館で行われた全日本柔道選手権大会の準々決勝で井上康生選手(29)が高井洋平選手(25)に敗れた。北京オリンピック100kg超級の代表を目指した井上選手の夢は潰えた。
 井上康生選手の切れのいい内股は、1992年にバルセロナ・オリンピックで金メダルをとり、小柄な身体で切れ味の鋭い技で体重が二倍もある選手と互角の試合をしたことから「平成の三四郎」と呼ばれた古賀稔彦さん(40)とともに、これこそ柔よく剛を制する柔道の真髄を見せてくれた。
 2003年9月大阪で開催された世界柔道選手権大会を観戦していた先天性の四肢切断(手足がない)身体障害者で『五体不満足』の著者の乙武洋匡さんも「大好きな井上康生選手を見にきた」というくらい、井上選手の柔道は観るものに感動を与えるものだった。わたしたち、東南アジアで柔道の指導をしている者にも「これが日本の、講道館の柔道なんだ」と教え子たちに見せてきた。
 わたしたちが学んだ柔道は体重別になる前の、小さい者、大きな者の区別がない無差別の試合、練習をしてきた。高校時代70kgに満たないわたしも、100kg前後ある選手と対戦し、勝てばほめられ、負ければ叱られた。自分よりも30kg、40kg重い対戦相手に一本勝ちをする。そのために稽古をした。地道な稽古が嫌いだったわたしも、自分の得意技に必死で磨きをかけた。投げ技で一本を取りたいという夢があったが、投げ技はあまり得意ではなかった。高校三年生のときに東京オリンピックがあり、初めて体重別が取り入れられた。
 だから現役の頃は、80kg以下の小さな身体で大きな選手をタイミングとスピードで制して全日本のチャンピオンになった岡野功先生(64)の背負い投げや寝技、関根忍先生(64)の左手の動きに特徴がある体落しにあこがれた。そして粘りのある足腰で担ぎあげ投げる古賀選手の背負い投げは「三四郎」の名にふさわしいものだった。
 井上選手の内股はピーンと伸びた脚が自分の背よりも高く跳ね上がって、その脚を軸に相手選手が回って落ちる。「伝家の宝刀」の切れ味を感じさせた。これこそ一本で投げる柔道だった。その意味では先日の決勝戦で石井彗選手に敗れた鈴木圭治選手の足技の切れもすばらしかった。
 体重別になってから、「柔道」が“JUDO”に変質していった。一本を取り合う柔道から、ポイントを取ったり、相手の反則が勝敗の駆け引きの道具になってしまった。「小よく大を制す」や「きれいな技で一本をとる」柔道ではなくなった。その典型がマスコミにヤワラちゃんと呼ばれている谷(旧姓田村)亮子選手だと思われている。確かに、谷選手の試合は組み手争いが多く、相手に十分に組ませずに相手選手の消極的な試合態度によって勝つことが多い。谷選手の名誉のために言うなら、谷選手の反射神経は人並み外れていて、相手が技を掛けようとする瞬間に彼女の手が感じ、脳に働きかける。それからの動きが神のように早い。仕掛けようとする相手よりも早く相手を攻めているのだという。先天的に恵まれた世界一の反射神経と、稽古によってつちかわれたスピードの合わせ技によって世界を制してきたのだ。わたしも彼女の試合はつまらないと思う。それでも、彼女の強さはすばらしいの一語だ。
 もっとつまらないのが、今年二度目の優勝した石井彗選手だ。相手を投げることのできない状況で技を仕掛けて攻めているふりをしているという見方もできる。今回の決勝戦も一本を取りに行くのではなく、優勝し、北京に行きために逃げ切りを狙っていたように見えた。好意的に見れば、本人は攻めたかったようだが、身体が動かなかったというふうに見ることもできる。鈴木を倒した大内刈りと寝技につづく動きが見事だっただけにほんとうに惜しい気がする。稽古量はおそらく日本で一番だという。勝ちたいという気持ちもつよい。明日に期待しよう。

 井上選手の内股は、試合も稽古もビデオやDVDになって、日本国内のライバルたち、世界中の100kg級、100kg超級の有力選手たちの研究の対象になっていた。比較的ポピュラーな技である内股の防御法はよく知られているし、内股にこだわり、三、四通りの入り方をする井上選手の内股も、掛けてくるタイミングが分かれば一流選手ならば容易に対応できるはずだ。「研究し尽くされている」ということが分かっていても、井上選手は内股にこだわりつづけた。
 最後の試合となった高井戦でも、井上選手の内股は読まれていた。高い選手は、むしろ、内股を待っていた。ポイントを奪われていた井上選手は最後の最後に全身全霊をこめて内股を掛けてくる。井上選手も高い選手が待っていることを分かっていた。それでも内股を掛けた。この技が自分自身だと言っているように見えた。すばらしい敗戦だったと思う。
 教壇の上から乙武洋匡さんは友人である井上選手の最後の技の意味を、担任する児童たちに伝えるだろうと思う。
 すばらしい柔道家が引退する。しかし、かれはきっともっとすばらしい選手を何人も育てるだろう。愚直な生き方しかできなかった井上康生という柔道家に拍手を送りたい。

     
 
   
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