特別編 その1 アンコール遺跡群めぐり

かってない平和なときをたのしむ
アンコール遺跡群の門前町シェムリアップ


渡邉明彦

 

 ユネスコの世界文化遺産に指定されているアンコール遺跡群の門前町シェムリアップは、ここ数年で見違えるほど生活環境が整備された。砂ぼこりの田舎町に小ぎれいなレストランやカフェ、お土産屋、ホテルなどが立ち並んでいる。
 十数年前までこの周辺は、二百万人ともいわれる大虐殺をしたポルポト派(クメール・ルージュ=赤いクメール)の拠点があり、戦闘と殺戮の日々がつづいていた。その頃の面影は戦争博物館や地雷博物館などに残されている。しかし、現在のシェムリアップの人々は歴史上かってない平和なときをたのしんでいる。もちろん、郊外に住む人々は貧しい。物乞いをする子供たちも多い。貧しいけれど、子供たちは明るく生き生きとしている。
 7月27日、カンボジアでは総選挙があった。第一回目の総選挙ではUMTAC(国連カンボジア臨時行政機構)が管理したが、今回は国外から選挙監視団体がほんの少し入っているだけだ。買収、暴力や脅しがなくなったとは言えないけれど、驚くほどへった。混乱が収拾しないアフガニスタンやイラクとは異なり、人々は平和の中で必死に生きていこうと努力しているように見える。
 わたしたちふつうの外国人が、ふつうに旅行をたのしんでいるかぎり(無防備に危険な地域に行き、危険な行為をしないかぎり)、カンボジアはすばらしい歴史遺産をもつ安全な国だとしんじている。

 

 
江戸初期の日本人と『アンコールワット』

 わたしたち日本人にとっては、『アンコール遺跡群』というよりも世界最大の仏教遺跡『アンコールワット』として知られている。17世紀初頭、朱印船貿易の商人達が交易を求めてメコン川をさかのぼり、カンボジアのプノンペンやビニャールに日本人町を形成していた。そこには関ヶ原の合戦に破れた武士たちも居住し、傭兵として働く武士団もあった。最盛時には300〜400人の日本人が住んでいたという。
 日本人たちは『アンコールワット』をインドにあるという祇園精舎と混同した。『アンコールワット』を訪れた日本人たちは十字回廊などの壁に墨で落書きを残した。1960年代には日本語の落書きが14か所もあったという。有名なものは本茶屋嘉右衛門(慶長17年)と現在も痕跡を残している森本右近太夫(寛永9年)のものだ。森本右近太夫は父の菩提を弔うために四体の仏像を奉納したという。寛永9年といえば、徳川幕府が鎖国令をだす3年前のことだ。
 隣の国のタイにも、ベトナムにも日本人町があった。タイ、アユタヤの日本人町の頭領、山田長政は、シャム王国の傭兵隊長としてもよく知られている。当時、シャムとクメール(カンボジア)は領土争いの最中だった。プノンペンの日本人町の住民たちも、日本で果たせなかった夢を異国の地で果たそうとしていたのだろう。

元祖“文化財の盗掘”はヨーロッパ人

 イラク戦争のどさくさに、国立博物館に展示されていたメソポタミヤ文明などの貴重な文化財が暴徒たちに大量に略奪されたことが問題になった。盗品市場にまわってしまった文化財をだれが購入するのか、自分だけの宝として永遠に個人の手からはなれないのか、なぜ大富豪と呼ばれる人達が盗品を故買するのか、この世界は摩訶不思議の世界なのだ。
 アンコール遺跡群の盗掘事件で歴史に不名誉な名前を残したのが、『王道』などの著作で知られるフランスの小説家アンドレ・マルローだ。マルローはバンティアアイ・スレイ寺院の祠堂の壁龕(へきがん)のレリーフ(浮彫り)の『花枝を捧げもつ女神デヴァター像』を盗みだし、国境を越えるところで発見され捕まった。『花枝を捧げもつ女神デヴァター像』は、その端麗な容姿から『東洋のモナリザ』と呼ばれ、アンコール遺跡群の中でももっともうつくしいレリーフと言われている。
 マルローだけでなく、ジャングルを踏破してアンコールを訪れた欧米人たちは、クメール人が世界に誇る珠玉の美術品、芸術品を盗掘していった。のちに、ポルポト派兵士によって、アンコール遺跡群は相当な打撃を受けた。美術品、芸術品の価値を知るものによる盗みと、無知なる兵士の破壊と、どちらが罪が重いかといえば、間違いなく「確信犯」である前者だ。イラクの博物館の略奪も、もっとも悪質なのは米英の兵士と記者やカメラマンによる「記念品」の持ち帰りのほうが罪は重いのではないか。

 
栄光のアンコール時代から、苦難の時代へ

 インドシナ半島にある国々は陸つづきの国境線で分けられている。時代時代によって国境線は動く。紀元1世紀の頃から国と国はその勢力をぶつけあってきた。インドシナ半島を縦断する二本の大河、メコン川とメナム(チャオプラヤ)川の流域をタイ(シャム)、ラオス(ラオ)、チャム、ベトナムといった民族が交流し、闘争し、栄枯盛衰を繰り返してきた。
 21世紀、近隣の国同士助け合わなければ、国際社会から孤立してとり残されてしまう。それでも二千年に及ぶ確執の歴史は民族の血となって脈々と息づいている。経済的に発展した国もあればとり残されている国もある。見下す国もあれば嫉妬に身を焦がす国もある。
 カンボジアの歴史は大きく5つに分けられる。

■前アンコール時代(紀元前後から802年)
■アンコール時代(802年から1432年)
■後アンコール時代(1432年から1863年)
■フランス植民地時代(1863年から1953年)
■民族国家建設時代(1953年から現在)

 紀元前後、メコン川下流のデルタ地帯から沿岸地帯を領有する扶南国があり、メコン川中流にはクメール族の真臘国があった。真臘は3、4世紀頃から南下をはじめ、扶南を吸収合併していった。7世紀にはほぼ現在のカンボジアと同じ領土を有していた。政治的には地方豪族が連合している状況だったが、8世紀にはいると陸真臘と水真臘に分裂して、群雄割拠の時代になった。
 802年、ジャヤヴァルマンII世が国家を統一し、アンコールに王都を定め、アンコール朝が興った。アンコール朝の王たちは競うかのように石造りの城塞都市や寺院を作った。インド文明の影響を色濃く受けたクメール人の世界観では、国王はバラモン教のシヴァ神などの化身、つまり現人神で、民に「五穀豊穣と繁栄」を約束する存在だった。王たちはその威信をかけて神の住む世界を建設した。カースト最上層の僧侶司祭であるバラモン僧を重用した。バラモン僧はある意味で、祭事、政治、軍事などのテクノクラートだった。クメール人は同時に大乗仏教を信仰していた。混在していたというべきかもしれない。シヴァ神やヴィオシヌ神と文殊菩薩や観世音菩薩が同居しているのはそのためだろう。
 巨大な城塞都市アンコール・トムを建設したジャヤヴァルマンVII世(在位1181年〜1218年?)の時代にアンコール朝は最盛期を迎えた。道路網が整備され、121カ所の宿駅や102カ所の施療院が建設された。バライと呼ばれる灌漑用水池なども整備された。国域は西はメナム川流域北部のスコタイ、南はマレー半島北部、北はビエンチャン付近、東はチャンバ付近まで、インドシナ半島のほぼ全域に及んだ。
 ジャヤヴァルマン・世の死後、王朝は衰退の一途を歩んだ。たびたびシャムのアユタヤ王朝が侵略してきた。1432年、ついにアンコールは陥落した。
 アンコール陥落後、シャムとベトナムの攻勢によって首都は転々とした。アンコールの城塞や寺院は熱帯のジャングルに埋もれていった。アユタヤ王朝は侵攻と干渉を繰り返した。ベトナムのフエ朝(阮=グェン氏)に援助をもとめたが、国土は侵蝕されつづけた。日本人町があったのは、アンコール陥落後、二百年近くたった時代である。
 1863年、フランスは強引に王国と保護条約を締結した。84年には支配強化の新条約をむすんだ。反仏運動があったが、87年にはフランス領インドシナ連邦に編入された。農民たちには人頭税や地租、賦役が課せられた。監督する役人にはベトナム人が登用され、民族間憎悪を煽った。植民地政府は、経済的には徹底的に搾取を、高等教育システムを設置せず愚民政策をとった。カンボジア人は社会的に放置された。太平洋戦争時に一時的に日本軍に占領され、シアヌーク王が独立宣言したが、日本軍の敗北により、独立は無効となり、再びフランスの支配にもどった。
 太平洋戦争後、自治権の拡大、憲法の制定、国民議会の設立と、真の独立へと一歩一歩進んだカンボジアは1953年11月9日、ついに独立し、カンボジア王国となった。
 インドシナ半島では、東西両陣営の大国同士が対立していた。カンボジアは非同盟中立を掲げて生き残りを計った。シアヌーク殿下は王位を退き、東西両陣営の支援を受けながら、王政、独立、仏教を機軸にした王政社会主義政策を推進した。その後、外国からの援助を廃し、中国の国家建設を習って自力更生の経済政策を掲げた。その結果、経済活動は麻痺し、財政は逼迫し、国民は貧困にあえいだ。そして、自由主義経済にもどした。
 ベトナム戦争の激化によって、カンボジアは中国よりの立場をとるようになった。1967年、左派のクメール・ルージュが地下活動にはいり、70年、アメリカ、南ベトナムよりの右派のロンノル政権はシアヌーク厳守を解任した。シアヌーク、キュー・サンファンを中心とした勢力は北京でカンボジア民族統一千戦を結成し、内戦に突入した。
 75年4月、アメリカがプノンペンから撤退したのを期に、ロンノル政権は崩壊した。解放勢力クメール・ルージュは、プノンペンの約200万人の市民を農村に強制移住させた。76年、新憲法を公布し国名を民主カンボジアとした。革命勢力のなかで権力抗争が起こり、中国毛沢東主席による文化大革命の影響を受けたポルポトを中心としたグループが、他派の幹部らを次々に粛清した。農民と労働者の国家を標榜するクメール・ルージュは、富裕、知識階級、都市住民を徹底的に弾圧し、拷問にかけ、虐殺した。3年半のクメール・ルージュ(ポルポト派)統治時代に、病死や飢死などをふくめて二百万人とも三百万人ともいわれる人々が死んでいった。
 79年1月、ベトナムの支援を受けたカンボジア求国民族統一戦線がプノンペンを占領し、カンボジア人民共和国(ヘン・サムリン政権)が成立した。クメール・ルージュはタイ国境近くに拠点を設けてゲリラ戦を展開、クメール・ルージュやシアヌーク派など反ベトナム勢力が結集して内戦はつづいた。
 1990年代に入り、国連が介入して内戦を終結させた。UNTAC(国連カンボジア暫定行政機構)によって、治安の回復、民主的な政府の構築、総選挙、法整備などが行われた。

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本稿は日馬プレス第256号(2003年8月16日)に掲載されたものです。
 

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